いつになったららくになれるんだろう
変形性股関節症の手術をしてから2年と4か月になろうとしている。
痛くて辛い毎日から脱却したく、大きな傷跡ともつきあっていく決断をした2021年7月。
両脚の手術、リハビリ生活は想像を絶する辛さだったけれど、少しの辛抱で快活な人生を再スタートできると思っていた22歳の私。
思ったよりうまくいっていないことばかりで、冒頭でも述べたように2年経った今でもしびれや痛みを伴う人生をおくっている。
夜な夜なふかいかんで目が覚め、起床時の不快感、歩行時の不快感や辛さ。
大きく残る傷跡。新卒で入社した会社での自身の病気のせいで受けた待遇。
転職して何とか生活できる収入を得るも片隅というか日常的に辛さを感じたままいきている。
痛みや辛さから目をそらせば、生きるだけの収入があるだけ幸せなことなのだと自身に幾度となく言い聞かせるも、なぜだか限界を感じている。
何がこんなに辛いのかもわからない。
転職してからは歩き方のいびつさを指摘されるなど些細な苦しさはあるが、
幸いにも人にも恵まれ、成果も出せていて、東京で赤字になることなく生活もできているのに、
ただただ悲しく苦しい気持ちでどうしようもなく終わらせたい気持ちになる。
なんで?と解決などしない無駄な問いをかんがえてしまう自分のせいだろうか。
今後、20年以上生きて叶えたい望みも、ライフプランも立てられないからだろうか。
子どもを必要としていない人、欲しているがという考えの人たちはどのようなモチベーションでいきているのだろうか。
外にも内にも関心のないじぶんはどうやっていきたらいいんだろう
らくになれるんだろう
わたしのちち
父は言った。
「子育ては投資ではない。必要経費である。」と。
私がその言葉を初めて聞いたのは二十歳のころだったと思う。
酒を飲みながら、祖父の話、兄弟の話、世界史、旅行した国の話を聞いた。
酒を飲んでいる時の父は饒舌で、たいてい気分がよさそうだった。
気分を損なってしまうことがないよう尽力したというのはあるが、酒を飲んでいる父親は話しやすかったように思う。
「お金がない」が両親の口癖だった。
男児を生んでこそ一人前というような、後継者の存在が重視される地方の田舎で育った。後継者が生まれるまでのタイミングで生を受けたわたしたちは”きょうだい”とされ生活を強いられた。実際のところ、生活は金銭的に厳しかった。身内の残した借金を肩代わりし、それでいて子育てをしていたのだ。食べ盛りの頃はとくに神経質になっている様子があった。それは”わたし”のせいではないけれど、”わたし”が存在していることが負担になっていることには違いなかった。
ちちには見栄と自尊心と育ってきた環境への名残があり、そして不器用だった。
単価の高い経験をさせること、またそれをさせてきた親であるという履歴を残しているようだった。なにかしらの習い事を始めさせ、外食にも連れて行った。自身が気に入らないことについては認めることは無く、ちちのいうことを聞かないときにはお気に入りのものを壊し、教育した。
そうして、金がないといわれつつも中途半端に贅沢を覚えた主観と客観の一致しない子供ができあがった。
ちちが嫌いだった。
やれ、やるな、やれ、やるな、いうことを聞け。大きな物音をよく立てた。
恐怖心と疲労感があった。
酒を飲むちちはもっと嫌いだった。
酒の用意をしろ、つまみをつくれなどと要求が増える。要求を聞かなければ小言を言われた。対峙することすら億劫な時は別室に移動し隠れていたが、それでも聞こえてくる不平不満に心がすり減った。
家を出た。
心が軽く、思考に余裕が出てきた。いろんなことを知った。
ちちとは当事者同士というより第三者目線で見て接することができるようになった。
その分落ち着いて話すこともできるようになり、家から出たい一心で可能な限り自立した。そうすると、一人のおとなとして働き稼ぐちちに尊敬の気持ちが芽生えた。
ちちのことが嫌いではなくなった。
ちちと酒を飲んだ何度目かのある時。
「子育ては投資ではない。必要経費である。」といっていた。
特異な才能もなく努力し続けられる意思もなく、不出来な子供であることを謝罪したわたしはその言葉に少し救われたような気がした。「必要経費なのだから負担に感じることは無い」という意味で大半を解釈した。
ちちはドライな人だ。
私がちちの身内から傷つくことを言われたと何気なく話した時には、そんなつもりで言ったはずではないと答えた。
けがをして体が不調のため家にお邪魔した時には、食事を用意するよう指示をする。
謝ることは全くと言っていいほどなく、感謝を述べることはほとんどない。
褒めることもなければ、関心を持つこともない。
ちちは人間味がある。
自分とは違う観点で笑い、よく水を差すような発言をするがお構いなしな態度を取り、機嫌をよく表現する。
二十数年生きてきて、ちちのことを少しは理解し、うまく関われるようになってきたような気がしていたが、どうもその考えは誤りであったように思えた。もう少し思い出して整理する必要がある。
地元のおすすめを聞かれて答えられなかった話
地方出身と述べると地元のいいところを聞かれることがある。
好きなところ、名所、特産物、、考えればいくつか挙げられると思う。
が、唐突に聞かれたとき、しかも少しかしこまった場であるとまた違った。少なくとも私は違っていた。
地元を紹介してくれなどと言われたとて、私からしたらそんなものはない。
地元というワードだけで一気に脳が働くことをやめ、当時の解像度の低い生活だけが思い出されるだけだ。逃げ場のない狭いコミュニティによる見えない抑圧に日々肩身の狭い生活をし、神経は尖り、すべてが敵だと思っていたあの環境の”いいところ”なんて、ある程度時間をかけてそれっぽいことを述べて「いいとこえろだね~」で終わるのが最適解なのに。
有名な自然物は華やかさを失い、”ただ”あるようなところしかないような場所で、まあそれでも有名な特徴を述べればよかったのだが、その質問を受けたときの私には地元=にはならず、ただただ何か絞り出せないかと思考をめぐらせるしかなかった。
考えれば考えるほどマイナスなものに引っ張られ、名所らしいものを思い出せない。
少しの間がある中で何とか絞り出したのが、私視点で地元の誇れる唯一の居酒屋だった。なんとかその居酒屋のいいところを述べるも天命が思い出せない。
魅力を十分に伝えることもできず上っ面の情報を時間をかけて説明したのち、オチも作れず微妙な着地で終わった。
相手からの返答は、「うーん、そうきたか。質問をかえますね」だった。
チキンラーメンアレンジ その1
チキンラーメン5袋入りをゲットした。
が、正直チキンラーメンがあまり好きではない。
自分にとっては味がしょっぱく感じて本来推奨されている食べ方だとあまり箸が進まない。面に味が練りこんであるところが苦手なのだろうか。
家にチキンラーメンともやしと卵と少しの豚肉があったのでアレンジすることにした。
☆もやしと豚肉を炒める。
同時にチキンラーメンを袋から取りだし、深めの宇都輪に入れ沸騰した湯をかける。
★麺からスープをなるべく抽出、炒めた☆に合流させる。
スープと引き離した面を平皿に盛る。
★に水溶き片栗粉でとろみをつけ、溶いた卵を入れ混ぜる。
できたあんかけを麺に乗せる。
餡掛けアレンジチキンラーメンの完成。
チキンラーメンの手軽さは完全無視の結果となったけれど自分好みにできたので」よかった。
写真は撮り忘れた。
転職活動でブラック企業にエンカした
手取り13万から脱却するために転職活動を始めた。
これといったアピールできる経歴もなく、未経験中途枠で求人を調べた。
そこで未経験OKのWebデザイナーを見つけた。給料も一般的な新卒基本給とほとんど変わらない。疑いの気持ちはありつつも応募した。
なぜか書類は通過し、面接をすることになった。しかも内定までの面接会数は1回だけとのことだった。
面接当日。方法はWebだった。
一通り話す内容を復習し臨んだが不要だったとも言える。
聞かれたことは自己紹介のみ。あとはほとんど企業側が会社説明をし、都度質問をするだけの1時間弱だった。
なぜブラック企業と判断したのかいくつか挙げる。
・Webデザイナーとして企業に常駐するために、コミュニケーション能力向上のため研修がある
→その研修というのがコールセンター業務
・コールセンターの研修期間が終了したらWebデザイナーとして勤務
・Webデザイナーの研修はなく、提供される教材で各自自学で習得
未経験デザイナー募集の「てい」で、コールセンターへの斡旋を行う派遣企業だった。
新設したばかりの会社だから、研修を終えデザイナーになった前例はまだいないとのこと。そろそろ出てくる頃ですと言っていたが本当かよという感想しかない。
弱者が搾取される構図の説明でもされているのかと困惑した。
生きていくにはそううまい話などなくて、自分の人生に当事者意識をもって動かなければ自分を守れないのだ。
肉が焼けるにおいを嗅いだ、金曜日の夕方。
夕方には空が暗くなってきた。顔の表面から感じるひんやりとした空気が好きだ。
薄暗い視界と相まって自分の思考をフラットにしてくれるから。
住宅街を歩いていると焼けた肉のにおいがした。
肉といっても鶏じゃなく、豚とか牛とか脂ののったにおい。
ハンバーグかな、焼肉のたれで焼いたスライス肉かな、もしかしてステーキとかなのかな。
もしかしたら誰かの遅めのお昼ごはんか早めの夜ご飯かもしれないけれど、
家庭とか家族とか、思い出した。
金曜日の夜だし、ちょっと美味しいもの食べよう。